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私の市民論 市民社会と芸術 昨年来、大阪ではスペースゼロ、扇町ミュージアムスクエア、近鉄小劇場など、名うての小劇場が次々閉鎖される「劇場受難」が続いている。芸術を愛し、創造活動を営む者にとって、母屋を奪われるような危機である。それに敏感に反応して、若い演劇人たちが立ち上がり、劇場再生のためのさまざまな議論が立ち起こるようになってきた。 むろん、それ自体は歓迎すべきことだが、反面演劇人たちの議論がやや同調的に流れる傾向も否めない。公演の場の消失という危機的状況に、「代替の劇場必要論」で向かい打ちながら、市民の共感や合意を取り付けようとしている。市民に向けたリリースの発行やシンポジウムの開催、カンパの活動も始まった。やがてこういった「市民社会の気運」が自治体を動かし、小劇場の設置という望まれるストーリーが考えられるかもしれない。 いま「市民」という言葉を使ったが、では若い演劇人にとって、市民とは誰を指すのだろうか。一握りの演劇愛好家、あるいは文化行動に熱心な若者層を指すのだろうか。いずれにせよ、恐らくは市民の大半を占める「小演劇なんか観たこともない人たち」は、この論議のなかでは慎重に除外されている。 市民活動の萌芽は、まず緊急的な生活の場面から生まれることが多い。環境や教育、介護といった先駆的にNPOが活躍してきた分野では、「目の前にある危機」に対し、主体的な行動が立ち起こることで、市民活動を育ててきたとも言えるだろう。 では、芸術は喫緊の課題かと問われると、回答に迷う。学校や病院は嫌いでも、それを「必要ない」とする人は少ないが、ナマの演劇を観たこともない人が、「それでも劇場は必要だ」と言い切ることは難しい。芸術は個人的な趣味や好みの問題であって、公正を原理とする市民社会とは明らかに一線を画しているように見える。 私たちは長い間、芸術を高級な授かりものとして受け止めてきた。いまも日常ふれることのできる芸術の多くは、まず特権的な創り手なり作品が頂点にあって、受け手としての鑑賞者がその下に配置される関係を保っている。むろん、卓越した芸術の才能には謙虚であるべきだが、この上意下達のシステムが、私たちの芸術観、とりわけ市民の自発的な表現活動を限定してきたことも事実だ。権威の前におとなしい鑑賞者でいることに馴らされ、本来自由で破壊的でさえある芸術の創造性を社会を成長させるダイナミクスとして取り入れてこなかった。最近でこそ小さな変化は見られるが、全国に数多ある美術館や劇場の取り組みも、地域住民に対する文化的な社会サービスに終始してきた。上品な鑑賞芸術の囲い込みの中で、私たちは芸術が生み出す創造力の可能性を根絶やしにしようとしてきたのではないか。 今年七月に、来日した英国ミドルセックス大学のケネス・テイラー教授の「ドラマ・イン・エデュケーション」のワークショップを受ける機会があった。英国では演劇教育が幼稚園の時から正規の授業に組み込まれているが、その目的は台詞を上手に語ることではない。本稿では詳細の説明はできないが、ドラマによるシティズン・シップ(市民性)の育成こそ、演劇教育の真髄であることがよく理解できた。 一人ひとりが自分らしく、そしてコミュニティの一員として協力しあうことの大切さを、ロールプレイやジェスチャー、インプロビゼーション(即興)などの演劇の技法を通して学んでいく。教科書では学べない、身体や空間を通して学習する、アート・エディケーションのねらいはそこにある。芸術とは、個の主体を尊重しつつ、他者との対話と協働を重ねながら、ひとつの共同体を作り上げていく、最も基礎的な創造活動なのだ。 私たちの周囲でも、これまでの芸術と社会の関係が少しずつ変化を見せている。 聖域であった美術館や劇場から芸術家が飛び出して、まちづくりや学校教育、福祉活動などと積極的な交流を進めている。発表の場オンリーであった芸術拠点にも、例えば金沢市民芸術村や京都芸術センターのように、最初からインキュベーション装置として新たな創造支援に取り組むアートセンターも登場しはじめた。コミュニティアートや演劇ワークショップなど、創り手と受け手が協働しながら成り立っていく、多彩な参加型プロジェクトの開発も見逃すことはできない。 客席数以上に出会いようのない劇場という場所から出て、芸術は何を社会に向けて語りかけてくれるのだろうか。小演劇も現代アートも、一般には馴染みも乏しく、テレビのような分かりやすさに欠ける。しかし、未知数であるからこそ、古典芸術のような評価の定まったものにはない、思いがけない価値観をたびたび私たちの内面に向けて提示してくれる。出会い、つなぎ、また揺さぶり、撹乱するというような、芸術がもたらす変化の力といっていい。 そこには、権威の前に絶対帰依してきた鑑賞者の姿ではなく、芸術の創造力にふれ、ときめき、驚き、それと積極的に協働しようとする人々がいる。芸術家だけが表現の主なのではない。芸術のプロセスに参加することで、主体的な個として、新しい価値を創造したり、自己決定することのできる、表現者としての市民がここに誕生するのである。 むろん、そのためには、創り手と受け手を結ぶつなぎ手の存在が最重要となる。また、評価の定まらない、未知数な芸術活動を、基礎から支える制度や機能もこれからの課題だろう。冒頭に大阪の劇場再生について述べたが、その担い手は演劇人や自治体だけに委ねられるべきものではない。市民社会の変化と伴い、劇場や芸術家の社会的なミッションも大きく見直さなくてはならないのである。 芸術NPOの活動が活発だ。納まりのいい鑑賞団体の枠を超えて、芸術と社会の関係を再構築しようとする意欲的な活動も目立つ。自治体はハードとしての文化施設にのみ投資してきたが、これからは市民社会にふさわしいソフト型の公共事業も手がけていくことになるだろう。芸術においても、市民と行政のパートナーシップは、緊急の課題となる。 とりわけ芸術活動を通じて生み出される最大の果実は、創意にあふれた若い人材の発掘と育成である。彼ら彼女らが、自立した市民として、どのように社会にコミットし、自己表現を試みることができるか。演劇や美術といったカテゴリーも軽々と超えながら、例えば教育や福祉、環境などの新しい分野における、表現者たちの活躍にも期待したい。 市民社会における芸術の試みは、まだ始まったばかりである。 |
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【仏教福祉】 都市の中のもう一つの癒しの場 ーコミュニティと寺院の関係を再考するー (日本仏教社会福祉学会「年報」2003年9月刊) 【芸術と社会】 市民社会と芸術 (大阪ボランティア協会「Volo」2003年11月号) 【まちづくり】 市民による教育と学習 ー芸術による市民知の創造ー (日本都市計画学会「都市計画」2004年2月号) ※それぞれの発言のタイトルをクリックしてください。 |
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