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都市の中のもうひとつの癒しの場 ―コミュニティと寺院の関係を再考する― 宗教都市としての大阪 本日は日本仏教社会福祉学会大会開催おめでとうございます。事務局の方から仏教福祉について大阪らしい実践報告をせよ、というご指示をいただきましたので、しばらくおつきあいいただければ幸いです。 さて、大阪と言いますと、みなさん連想されますのが、タコヤキとお笑い、阪神タイガースと相場が決まっております。西日本を代表する近代都市である一方、実は意外にも、大阪は堂々たる宗教都市の相貌を持っております。文化庁の『宗教年鑑』によれば、全国で一番お寺が多い都道府県は愛知県、つぎに京都府、三番目に大阪が来ます。大阪はたいへん面積が狭いのですが、そこに三千余りのお寺がひしめき合っております。私が住職を務める應典院は大阪市の天王寺区(四天王寺さんのある地区です)は、この区だけで約三百ものお寺が甍を並べており、全国有数のお寺密集区ではないかと思います。 なぜ、かように大阪は寺が多いのか、これには歴史的な理由があります。 日本仏教史において、大阪という都市が果たした役割について、大きく四つくらいの節に分けることができます。まず第一期は飛鳥の時代、仏教の黎明期、一五〇〇年前に四天王寺が開創されました。日本仏教伝来の輝かしい第一頁が大阪で生まれます。次に第二期、中世浄土教の聖地として四天王寺、あるいは浄土宗の開祖法然上人が日想観に励まれた一心寺などが発展します。この四天王寺さんと一心寺さん、ちょうどお向かいにありまして、大阪の信仰のメッカということで、今も彼岸や盆にはたくさんの参詣客で賑わいます。 第三期には、近世初期、最近ブームとなった浄土真宗の中興の祖・蓮如聖人の活躍です。蓮如聖人が設けた石山本願寺というお寺は寺内町を形成し、いわば民衆による自治区としての先駆けでありました。そして第四期、江戸時代中期、町民文化の開花と共に大阪市内の寺町では特有の文化が発展します。 そもそも大阪で夏の陣で豊臣が倒れまして、その後徳川時代となって初代大阪城城主・松平忠明が、戦乱で荒れた大阪を再建すべく大規模な都市計画を断行しました。その名残でしょうか、現在も大阪には比較的都心にたくさん寺町があります。私の寺のある下寺町は、都心の幹線道路に沿って、南北約二キロにずらっと伽藍が並んでいる。京都や奈良にもあまりない光景ではないでしょうか。 このように宗教都市大阪の歴史は大きく四期に分かれて発展していくわけなんですが、ただ昔もいまも、京都や奈良のように観光バスで乗りつけるようなお寺はあまりない。いずれも庶民の信仰によって支えられているお寺が大半です。大阪は中小企業の町と言われますが、そういう意味では寺町も中小企業型が多いと言えるのではないでしょうか。 NPО型寺院・應典院の再建 さきほどご紹介しましたとおり、下寺町は市内でも有数の寺町として知られています。私の師僧である父が住職を務めている大蓮寺が一番北端にあり、南詰めの一心寺まで二キロに渡って、二十四のお寺が伽藍を並べております。大蓮寺がちょうど二〇〇〇年に創建四五〇年を迎えるにあたり、その記念事業として計画されたのが、当時戦災で荒れたままとなっていた塔頭・應典院の再建でした。一九九七年四月に落慶、應典院というお寺が再出発したわけですが、今日はこのお寺が取り組んでおりますいろいろな活動をご紹介しながら、お話を進めていきたいと思っています。 この應典院の特徴のひとつに、おそらく日本で一番若い人達が集まるお寺であるといって過言ではないと思います。だいたい年間二万人強の人達がこのお寺に集まりますが、その大半が二〇代の若者たちで、遠く京都や神戸からも足を運んでくる若者もいる。山門は朝の九時から夜は十時まで開いており、夜の利用が大変多いお寺です。 寺の建物が変わっています。二階の本堂は直径一四m高さ七mという円筒形の小さな劇場になっており、一階には四〇人程度収容のセミナー室が二つあり、その一階と二階をつなぐスペースはオープンギャラリーになっているという、非常にお寺らしからぬお寺でもあります。 しかもこの寺は、いまやさまざまなパートナーと連携しておりまして、大阪府や大阪市教育委員会から受託事業やコンペを通じて、またトヨタ自動車やアサヒビール等の企業メセナからなども広範な範囲から資金援助を受けています。いわばセクターを超えて、開かれた公共の場としてお寺の活動を続けています。大阪弁で「けったいな」という形容詞がありますが、極めてけったいなお寺の活動は、今年六年目を迎えています。 應典院の再建計画は一九九三年に立ち上がったのですが、その頃の時代背景といまの應典院の活動はけっして無関係ではありません。ご記憶かとは思いますが、当時、オウム真理教あるいは幸福の科学といったカルト教団に、若いエリートが洗脳される事態がありました。続いて九五年に阪神大震災、地下鉄サリン事件、そして宗教法人法改正といった、日本人のいのち、あるいは宗教というものが根本から問い直された時代であったとは言えないでしょうか。しかし、残念ながら多くの既成教団は建前的発言に終始して、一向に若い人に届けられない。では、應典院を葬式寺としてではなく、とくに若い世代に発信できる寺を構想しようと、長い議論の末、現在の基本デザインができていったわけです。この議論の経過は一冊の本にまとまっていますが、そのモデルになったものは、当時から私が関わっていました数々のNGOやNPOの運営スタイルでした。 九〇年前後、私はNGOの活動に関わっており、とくにアジアの仏教国と言われる国々、タイ・ベトナム・カンボジア・インド、そういった国々を回っておりました。こういった国々でのNGO活動では、現地のお坊さんが中心に活躍されているケースが多く、そういった現場を見るにつけ、我々日本の仏教、お寺というものが見失っている原型が実はアジアの国々にあったことを発見します。同時に自分達のミッション(ミッションというのはもともと布教という意味ですが)のありかたについて、我々はなぜこの活動をするのか、その使命をわかりやすくきちんと市民に伝えていく、また市民もそれを理解し、いっしょに協力するという、「説明と合意」の精神みたいなものを、NGO、NPOの活動から学んでいきました。 ですから、應典院は再建にあたり、非常に大胆な決定をすることになりました。この應典院では檀家さんがいないので、お葬式をしないということをまず宣言した。檀家制度とかそれを支える墓制度とか葬式という基本セットを全部放棄した。そこが應典院の出発点として大きな決断でした。逆に、だから宗派も問わない、誰でも参加できる会員制の寺という着想もできたわけです。それも、ミッションを掲げ、会員を募り、運営基盤を支えるNPОのノウハウをかなり取り入れたわけですね。 現在、應典院の中には、NPОの應典院寺町倶楽部という別組織があって、ここでいろんなコンテンツを作っています。演劇公演や現代美術の展覧会、講演会やワークショップ、セミナー等々、若い人にとって、應典院は芸術やNPОの溜まり場になっており、本堂ホールの年間の使用率も六割を超えています。 学び・癒し・楽しみはお寺の原点 なぜこんなけったいな寺を作ることになったのか、それにはお寺について遠近二方向からの視点があります。 まずこの遠い視点からお話をさせて頂きます。そもそも葬式仏教の歴史は近代以降のことで、そんなに古くありません。逆に、仏教伝来一五〇〇年もの間、日本のお寺は生活文化における拠点として、大きく三つの機能を持っていた。それが、学びと癒し、楽しみの役割だったと思います。今風に言い換えると、教育と福祉、芸術文化と言えるでしょうか。 まず、学びですが、ご承知のように、日本の教育史において一番最初に庶民に対して開かれた学校は、空海の創立した綜芸種智院であります。また近世に入りまして寺子屋が日本中に浸透、当時の日本人の基礎教養というものを大きく支えてきた。面白いデータがあって、当時一八世紀の世界の覇権を握っていた大英帝国のロンドン市民の識字率と江戸町民のそれとを比較したものがありますが、前者三〇%に対し、後者はすでに八〇%を越えていたと言われます。おそらくそういった基礎教養があったがゆえに、世界の奇跡と言われた近代の復興を日本人は成し遂げることができた。 二つ目の癒しについては、仏教伝来の地、四天王寺を見ればわかります。四天王寺は当時の総合医療センターみたいなところで、仏教の教義や儀式同様、最先端の医療、福祉に当たってきた。あるいは中世からたくさんの名もない私度僧の活躍がありました。高野聖などは有名ですが、寺に定住しないで漂白しながら、行く所々の地域の問題に対応した。行基とか重源とか有名ですが、そういうスーパースターに隠れて何千何万という名も無い私度僧達が、当時の日本人のコミュニティを支えてきたのではないでしょうか。 最後が楽しみ、芸術文化です。もともと日本人にとって芸術・芸能というものは多くは神仏に奉納する芸であって、それ自体が宗教行為でした。勧進興行といいまして、中世にはお寺の経営上の必要に応じて、資金集めの大々的な興行がお堂や境内で持たれた、と言われています。 こういった形で日本人の生活文化と深く密着しながら仏教寺院というのは特有の世界を形成していくわけですが、明治・近代に入ってその一部は行政サービスに、また一部は商業資本へと分与され、最後に残ったのがお葬式ということになるのではないでしょうか。 では、もう一つ、今度はもっと近い視点から應典院の背景を見てみましょう。今から二〇年ほど前ですけども、日本人がバブルに狂乱した時代、あの頃、都心のお寺が続々と地上げされた事件をご存知でしょうか。土地効率を求める都市社会において、非生産・非消費の聖地は無用の場所であって、従って莫大なマネーによって寺は移転を余儀なくされる。何百年もの時間をかけて築き上げた歴史が一瞬にしてその場から抹消されていく。そういう話が、京都・東京・大阪各地で続発しました。 東京あたりでは、やる前にやり返せと寺自体がテナントビル、マンション、駐車場の経営に乗り出した。都心の寺自らが不動産ビジネス化して、現在もその傾向は続いています。つまり、土地の高度利用とか利潤追求という世俗の価値に適応することで生き残る道を選んだわけで、逆に言えば、寺がなぜそこになくてはならないのか、という存在理由について説明が成り立たない、ということでもあったのです。 どこのお寺でも三百年程度の歴史はあります。しかし、だから今後三百年もここにあり続けるという保障は何もないのであって、そういう既得権を主張することは全く意味をなさない。むしろなぜ我々の寺がここになくてはならないのかということの説明責任、アカウンタビリティというものを都市のお寺には強烈に求められる時代になった、ということを、私はあの時思い知らされたのです。 しかし、その説明責任とは、けっして新しい機能を作り出す必要はない。先程申し上げた我々が持っていた学びや、癒し、楽しみといった、本来のお寺の役割をもう一度社会に説き直すことが、應典院再建の説明責任でもあったのです。 お寺の資源力を活かす もともとあったお寺の役割を、私は「お寺の資源力」というふうに考えています。 東京大学大学院に二〇〇〇年、文化資源学研究室が新たに開設されました。あまり聞き慣れない学問ですが、文化資源学とは、「これまで切り捨てられてきたり、見過ごされてきたものを文化的な資源に変えること。すでに一定の評価が与えられてきたものに、新しい観点を与えて再考する」というふうに定義されています。 で具体的に何をやっているかというと、いま全国に数多ある文化施設、図書館とか美術館、博物館の職員の養成プログラムを全面的に見直しているそうです。図書館には司書、美術館には学芸員がいますが、こういう専門職の人たちの仕事はどうしても定型化、固定化しがちで、なかなか新しい実験ができない。もっと市民に親しまれるためにも、抜本的に文化施設の役割を刷新していきたいのだけど、それには人材の力を変えることが不可欠なんですね。言い換えれば、人材育成を進めることで、文化施設の持つ資源性というものをさらに掘り起こしていこうという考え方です。 まちづくりという視点でも、資源の発掘ということはよく論議されます。 應典院のある下寺町も、都心の寺町として、最近注目を集めるようになってきました。その先駆けとなったのが、九六年から寺町全域で取り組んでいる「なにわ人形芝居フェスティバル」です。一心寺の高口恭行住職が音頭を取って始まった、いわば寺町活性化イベントですが、毎年四月の第一日曜日、寺町のお寺すべてが一斉に開放されて、本堂やら広間、境内などあらゆる場所でたくさんの人形劇が上演されます。プロ・アマの四〇を超える人形劇団が参加してくださるのですが、その一日に下寺町を訪れる人は約一万人と、たいへんな人気を集めたわけです。 もちろん人形劇ですから、メインは子どもたちや家族連れなのですが、中には、境内にある花を愛でたり、著名人の墓所をお参りしたり、いろんな歴史ファンも往来します。大阪の都心に、こんな自然と歴史の宝庫があったのかと、みなさん、喜んでくださる。大阪名物といえば、タコヤキとお笑いしかないと思っていたのが、このイベントを通して、大阪の意外な魅力、つまり文化資源を再認識するに至ったわけです。 資源というのはただ地下に眠っているだけではただの宝の持ち腐れです。その資源を地上に引き上げて新しい光をあてる力、これを資源力といってよいと思いますが、この力が大切なのです。 應典院の活動もこのお寺の資源力を活かそうというものなのですが、やはりお寺を再生しようとユニークな提案をされている和尚さんがいます。長野の松本市の臨済宗の神宮寺住職の高橋卓志さんは、全国にある無住寺院を宅老所にしようと呼びかけておられます。いま過疎地の無住寺院の問題は深刻ですが、こういうお寺の行く末は統廃合か、もしくは文字通り廃寺の運命しかありません。無住寺院問題は現代の教団経営の屋台骨を壊しかねない、大変重大な問題なのですが、では、なぜ後継者がいないのか。それは、無住寺院は経済的基盤がないからです。 しかし、この高橋さんのプランによれば、無住寺院に宅老所いわゆる小規模型のデイケアセンターを作ることによって、六、七人のお年寄りを預かることによって、さまざまな助成や支援を受けれながら十分に運営することができるといいます。いまは介護保険の制度がありますから、お寺に介護系のNPО法人を作って、認定事業者になることもできる。過疎地のケアハウスと生まれ変わったお寺に、教化と福祉に意欲を持つ僧侶を送り込もう、というのが高橋さんの計画です。特徴のひとつは法施収入中心のお寺に、新しく別の財源を呼び込もうという発想にありますが、もっともたいせつなことは、現代の若い僧侶たちが、地域福祉にかかわることで、教化者としてうんと伸びる可能性を秘めている、ということです。生活の現場において、いのちの末期をともに生きながら、現代の仏教者はとても大きなことを学ぶに違いありません。そういう意味では、地域の福祉にかかわる拠点として、お寺はすでに立派な資源力を秘めていると思います。 教団の組織は大きすぎて、なかなか時代の変化に即応することはできません。ですから、高橋さんの企画も、宗派にお任せにするのではなく、むしろ意識ある寺がネットワーク化して、作り上げていく方がよいのかもしれない。せっかくの資源を地中で腐らせてしまわないためにも、いま私たちは資源力を育む人材やシステムを至急に育てなくてはならない、と思います。 タイのエイズホスピスに学ぶ アジアの仏教国では、葬式仏教が主流の日本ではちょっと考えられないような仏教社会事業ともいうべき活動と出会うことがあります。 最近、念願叶って、タイのプラパットナンプ寺院に行くことができました。この世界的に知られたお寺は、開創以来エイズホスピスとして活動を続けています。敷地の広さは野球場分ほどあるのですが、そこにお寺や病棟、生活棟、リクリエーション棟、そして火葬場もあります。タイは現在もHIV感染者は百万人以上といわれますが、その方たちは、結局家族からも地域のコミュニティからも排除され行き場を失う。九二年にアロンコットさんというお坊さんが発起して、このお寺を建立して、以来タイ国内はもちろん世界中からここで最期を迎えたいとたくさんの感染者がやって来ます。常時キャパいっぱいの二百名の入所者がいますが、その周辺には空き待ちの方達が二〇〇〇人位、お寺の近くにエイズ患者のコミュニュティを作っています。 私も生まれて初めて何百人というエイズ患者と出会いました。ここには医者は一人しかいない。七〇名ほどいるスタッフの大半がケアにかかわる人たちで、そのうち半分が、お坊さまたちでした。例の黄色の僧衣をまとったお坊さまが三〇人もいらっしゃるのですが、後で聞いて驚いたことに、またその半数が実はご自身がエイズ患者の僧侶であるということです。つまりエイズを患って入所されてきた方がこのお寺で出家をされて、そして自分自身が当事者でありながら、別の患者をケアする関係を作っているのです。 ここでは一日見学や体験をさせてもらいましたが、ひとつ気がついたことがあります。それは、宗教と言葉の関連です。 一般的に私たちが日本のお寺を詣りますと、有名なお寺ほど必ず仏教的な言葉の洗礼を受けますね。玄関に仏語の額が掲げられているとか、祖師の逸話が紹介されるとか、ときには法話を聞いたり、とにかく日本のお寺は言葉を総動員して、伝えようとする。参詣する方も、あらかじめそれを期待しているようなところがあります。 しかし、プラパットナンプ寺院では、終日いても一言も仏教に関する教説を聞いたことがなかった。たまたまだったかも知れません。仏教者は自ら祈る時間や祈る場所は持っています。しかしそのことをエイズ患者に強要する場面は一切ない。自分の宗教とそこに横たわっている人の宗教は別物なんですね。 同じようなことを、インドのカルカッタのマザーハウスでも感じました。あそこも亡くなったマザーテレサを慕って、大勢の方が巡礼にやってきますが、そこでも修道女たちは、説教じみたことは一切言わない。祈りだけがあります。観光寺院でもない限り、宗教の言葉だけに安住しない、宗教者たちの生きた行いがあります。これについて、じつは、私たちも同じ経験をしています。 九五年の阪神大震災のあの時、現地に飛び込んでまず真っ先にお説教をされたお坊さんはいらっしゃらなかったですね。百万を越えるボランティアの人たちが被災地神戸にやって来ましたが、あの人たちはお坊さんの説教を聴きにやってきたわけではない。目の前に横たわっている「いのちの危機」に対して今何かしないではいられない、ここに一緒にいないではいられない。そういう衝動的な何かが若い人たちの力を動かし、その後のボランティア社会の大きな契機となりました。何でもお上任せだった日本社会において、初めて市民という主体的な存在に気づかせてくれた。そこには生と死を超えた、いのちに連鎖するような行いがあり、魂をつなぐ深い関係性というものが横たわっていたのではないでしょうか。 確かに近代の教学というのは、言語による体系を見事なまでに作り上げていきました。幼稚園の子どもでも、お釈迦さまの生涯を学ぶことができる、ということはたいへん大きな功績です。しかし反面、宗教者の間では、言葉というものを過信するあまり、目の前にある関係性、そこに横たわっている人と人とのつながり、悲しみ、痛みというものに本気で向き合ってきたのかという反省があります。逆にそんなこと本に書いてあるじゃないか、とっくに解決済みだとばかり、先へ先へと理解を促されてしまって、そのことを引き受けて自分の経験という形でじっくりと身体化していくような、そういう深まりをむしろ遠ざけてしまったのではないか、という反省が私にはあります。人と人の関わりを通してこそ、また悲しみや痛みを共有してこそ、より深い何かが立ち上がってくる。そういう関係や経験に対し謙虚さを持ち合わさず、ただ無自覚に従来的な言葉を受け入れているだけであれば、それは悪く言えば権威という辞書を延々とめくっているに過ぎない。 いのちの共同体をつくる 應典院ではいくつかのセラピーの活動に取り組んでいますが、そのひとつに親子による箱庭療法があります。箱庭療法は五十七 ×七十二センチ角の箱庭にいろいろなパーツを置きながら物語を作る、一種の芸術療法ですが、應典院ができる前からやっていますので、長い方ですともう七年間も通っている人がいます。子どもが幼稚園の時から始めて、もうすぐ中学生ですよ。月二回定期的に来られて自分の箱庭を淡々と作り続ける。自己の内面について、長い時間をかけて問いかけを重ねてゆくことも、実に尊い関係性といえるのではないでしょうか。 また應典院で毎月第三木曜には、月例で「いのちと出会う会」を開催しています。生と死を考える、市民の会ですが、ここでは権威者に回答を求めるのではない、当事者どうしのセルフヘルプを会の目的としています。 会の前半は、生と死に関するいろいろな話題をその月の提供者から聴き、後半では参加者どうし話し合います。話題提供者には、ホスピス医やガン体験者とかお招きしていますが、むしろ会の魅力は後半の話し合いにあります。多くの参加者は中高年ですが、みなさん、本当に率直に自分自身の体験を打ち明けながら、語り合うことができる。互いを受け入れ、相手を絶対否定しない。会そのものが一種のコミュニティとなりつつあるのです。日本人はそんなに対話や議論が上手なわけではありません。流暢に会話が弾むわけでもない。むしろ無言でいる時間の方が多い。だけど、沈黙のあとには、ようやく搾り出すように、ぽつりぽつりとその人の死生観が語られ始めることもあります。 人間にはそもそも自分自身を癒す力がある。ひとりでは立ち向かえないような問題でも他者とのつながりや学びを得ることで、自ら回復することのできる潜在的な能力を持っています。セルフヘルプというのでしょうか、最初から専門家に任せっぱなしにするのではなく、私自身に内在する可能性に問いかけるような、そういう自己治癒力があることを、私は箱庭療法やいのちと出会う会のグループを見てしばしば感じています。 逆に、そういう新しい自己との出会いを阻むものがあるとすれば、これまでの古い権威社会なのかもしれません。病院もしかり、学校もしかりです。権威的なものとそれに追従するものとの関係が、日本人の自己決定能力を阻んできたといえるでしょう。お寺の世界も同じです。檀家はけっして住職の支配下にあるのではない、同じ信仰を絆としながら、ともに同じ使命を共有する、そういう同信同行の関係になくては、自己はけっして育つことはありません。 阪神大震災以降、日本は市民社会に入った、と言われます。市民社会とは、私なりに説明させていただくと、「ひとりひとりが主人公となれるような社会づくり」といえるでしょうか。自分の主体性をしっかりと持ちながら、多様な価値、異なる価値も受け入れることのできる、キャパシティの深さというか、それは明らかにこれまでの長いものに巻かれろ式の考え方とは違うものです。 仏教の専門用語をどんなに駆使しても、そのことによって、いのちの共同体が創造されるわけではない。たいせつなことは「仏教の解説」なのではなく「仏教の関係」、つまりいのちを基盤としながら、私たちの社会やまちを少しでもよくしていくことにあるのではないでしょうか。 應典院はイベント寺院ではありません。また、特定の芸術愛好家を育てているわけでもない。そういった場や関係を一つの契機としながら、時間をかけながら、もう一つのいのちの共同体づくりを目指しています。 エンディングを支えあう いのちの共同体とかいうと、たいへん耳障りよく聞こえるのですが、いまひとつ実態が分からない。これからのお話は、應典院の本寺の大蓮寺の方で取り組んでいます、エンディングサポートについてしばらくご紹介させていただきます。この活動は、お寺単独ではなく、いのちのコミュニティをNPOと協働しながら作り上げようというものです。 この活動の端緒は、ひとつのお墓から始まりました。 大蓮寺はかなり広い墓地を有していますが、その一角に二〇〇二年に生前個人墓「自然」という新しい集合墓が完成しました。デザイン的にもちょっと変わっていますが、このお墓の仕組みがいままであまりなかったものです。 これまでのお墓は家を中心とした代々墓が常でしたが、「自然」はすべて個人を単位としています。夫婦といえど、二人の個人。お墓の継承者がいなくてもいいし、没後はお寺が永代供養させていただく。同時に当然ですが、個人が元気なうちに契約していただく。つまり、その方が生前のうちから、お寺とのつながりができるわけです。 「自然」は最大四百人の方の納骨が可能ですが、個人が単位ですので、檀家さんではなく会員さんと呼んでいます。会員の多くは六〇代、七〇代ですが、自分の死を意識し始めた方たちが個々にお墓にアクセスし始める。自分で選び、自分で決める。これまでの家墓にはなかった動きです。少子化が進み、家族も多様化すると、家墓だけを墓の標準として保ちつづけることはむずかしい。であれば、どうやってひとりひとりとの関係を作っていくのか、死んでからではなく、生きているうちの関係をもっとていねいに結んでいけないものか、と考えたわけです。 核家族の最後は、夫婦のみの世帯です。老夫婦のどちらかが死ねば、あとはひとりで死ななくてはならない。しかし、人間はひとりでは死ねません。個人の死を軸にした、関係づくり、コミュニティづくりがとてもたいせつだと思うのですね。 エンディングサポートとは、人生末期の支援という意味ですが、それは余命三ヶ月というような限定的なものではなく、もっと時間的にも長い、後半人生全体のライフサポートというような意味で使っています。 図を見ていただくとわかりやすいと思いますが、大蓮寺が中継点になって、エンディングにまつわる相談や研修を行います。いま「医療相談」「税務・相続」「仏事」「ホスピス」「葬送」の五つの分野がありますが、それぞれの領域を専門とするNPОと提携しています。例えば「医療相談」の担当NPОである「ささえあい医療人権センターCOML」は、構成員は医師や看護師、弁護士です。非常に高度なサポートが、受けられる。 大蓮寺自体には、何の専門知識もありません。ただ高齢者が自分のエンディングについてまず相談してみよう、という窓口にはなれるし、個人の問題を整理して、専門機関につなぐことはできる。そういう役割をインターミディアリとか中間機関といいますが、お寺を核に市民とNPОをつなぐのが、このプロジェクトの要なのです。いまのところ大蓮寺で、定期的にエンディングのセミナーを開催していますが、インターネットも充実させていきながら、将来的には個別相談に対応していきたいと思います。場合によっては、自分の死後、葬送のNPОによって、お骨をお墓まで搬送する、というようなサービスも受けることができます。 エンディングサポートはけっして「自然」の会員さんだけを対象にしたものではありませんが、その活動基盤に「自然」の志納金が大きく関係しています。このお墓建碑の減価償却が済んだ段階で、「自然」の志納金の一部が基金となって、以後継続的に各NPО団体の活動支援金として還元をしていきます。俗っぽい言い方をすれば、「お墓を決めて、老後の安心を」みたいなことですが、この仕組みには行政も企業もまったく入らない。市民発の事業であることは間違いないと思います。 まだスタートしたばかりの事業ですが、よろず相談所であったお寺の「資源力」を上手に活用しながら、地域に対し開かれた活動を続けていきたいと願っております。 慈悲の社会をどうつくるのか 私たちは、これから未曾有の超高齢社会を迎えます。長寿社会、長生き社会というと聞こえはいいのですが、もっと単純に言うとそれは長く間延びした自分の死というものとつきあいながら生きていかねばならない、ということです。医療サービスが向上して、私たちはなかなか死ねない。しかし、どんなに医療や福祉のサービスが発達しても、人間はそれだから幸せに死ぬことはできないと私は思います。本来の仏教福祉、仏教社会福祉の定義というものを存じ上げずに、私なりに思うところを申し上げれば、結局人間が持つ本質的な弱さ、傷つきやすさというものに立った「慈悲の社会づくり」こそ、仏教社会福祉の要諦ではないかと思います。 昭和三〇年生まれの私は、高度成長期をそのまま少年時代・青年時代と過ごしてきました。偏差値第一世代でもあります。その時に私達が受けてきた教育というのは、人間は強い者にならなくてはならない、強いことはよいことで弱いことは敗北なんだ、ということを、学校でも会社でも徹底的に刷り込まれていた世代といえます。しかしこれから迎える少子高齢化社会を、果たして「強さの論理」だけで生き抜くことができるのでしょうか。逆にこれから私たちは、反対にむしろ弱さ、人間の傷つきやすさや繊細さに学ぶ時代をこそ造らなくてはならないのではないか。人間はもっと互いをささえあい、助け合わなくてはならない、という本当のケアの原理を、仏教の教えから引き出すことではないか、と思います。 東京の世田谷に遠藤滋さんという重度の障害者がいます。彼は脳性麻痺を患って次第に身体が動かなくなり、現在は完全介護が必要な状態になっています。しかし彼は施設にも行かない、親とも住まない、たった一人で世田谷のマンションに暮らしています。そうなると自分の身体が動かせませんから、当然、家族以外の人の手で二四時間の看護態勢が必要になります。 そこで彼は、インターネットを使って自分を介護してくれる若者集まれというメッセージを出します。自分の容態の写真を添えて。何年か経つうちに、それに呼応する二〇代の若い若者達が二人三人と現れるようになります。多くの若者は介護なんてしたことがない。遠藤さんの要望に従い、あなたは風呂に入れる係、あなたは食事の世話をする係、あなたは朝までベットの横で、夜何かあったら困りますから、一緒に寝る係というふうに分担が分かれていきます。 この遠藤さんの部屋には、彼を介助した人達が書き残したノートが、千冊を超えたいまも書き綴られています。このノートを開くと、初めて障害者に出会った若者達が、遠藤滋という人格と関わって変わっていくプロセスが書かれています。はじめはみんな、遠藤さんが何をしてほしいのか分からない。ドキドキする。しかし、最初の戸惑いがだんだん慣れるにつれ、遠藤さんという障害者の堂々たる生き方にふれて、自分の生き方に大きな問いを持つようになります。自分は精一杯生きているのだろうか、自分は家族と支えあう関係を結べているだろうか、と。これはかつて應典院で上映会をしたのですが、「えんとこ」という記録映画になっているので、ぜひご覧いただくといいです。 ボランティア活動ではそのことがよくわかるのですが、ケアをする者とケアされる者の関係はしばしば逆転します。ケアの相互性というのでしょうか、一方的なお世話とか奉仕ではなくて、両者が対等に何かを学びあうとき、少しずつ社会は変わっていくと思います。仏教の慈悲が、弱さや悲しみへの共感を基盤としているように、社会のあらゆる人々が、とりわけ高齢者や子ども、在住の外国人、障害を持った人、病気の方やいま死に臨んでいる方など、マイノリティといわれる人々からこそ、私たちは人間として生きる意味や価値を学ぶことができるのだと思います。 應典院も大蓮寺も、ささやかな小さなまち寺に過ぎません。しかし、全国に八万あると言われているお寺の、一%でもいいから、本気に活動を起こしたら、私は社会を変えることができると思っています。そして、その変革の原理としてもう一度仏教の教えに学ぶことで、私は新しい市民仏教の時代がやってくると信じています。 雑駁なお話になりました。先生方には何のお役にもたたないと思いますが、大阪弁でいう「いちびり」な寺の実践報告として大らかに受け止めていただければ幸いです。長時間ご清聴ありがとうございました。 |
【仏教福祉】 都市の中のもう一つの癒しの場 ーコミュニティと寺院の関係を再考するー (日本仏教社会福祉学会「年報」2003年9月刊) 【芸術と社会】 市民社会と芸術 (大阪ボランティア協会「Volo」2003年11月号) 【まちづくり】 市民による教育と学習 ー芸術による市民知の創造ー (日本都市計画学会「都市計画」2004年2月号) ※それぞれの発言のタイトルをクリックしてください。 |
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