欠落感を自覚する。 卒業式前、先生たちに贈ることば。

(2017年05月11日 更新)

2月、幼稚園では今年度最後の保育参観が実施されます。年長児にとって3年間の集大成ともいえる参観日、大勢のお父さんお母さんに見つめられ、子どもたちにとっても最高の晴れ舞台となりました。

そしてもうすぐ卒業式、私たちも胸を張って子どもたちを送り出しますが、ひとつ大切にしておきたいことがあります。それは「子どもの成長に私たちは本当に万全であっただろうか、十分でなかったのではないか」という欠落感です。何かを成し遂げるはずであったのに、どこか欠いたものがある。後悔とか未練とは違う。寂しさに近い感情です。

そもそも教育に百点満点があるのでしょうか。とくに幼少期の教育において、完璧な子どもの育ちなどがあるのか。完全な教育などあるのか。私には、そういったことを口にすること自体、傲慢であり畏れ多いような気がします。
 
進級・卒業を控えたこの時期に感じる、「ああもしてやりたかった、こうもできたはず」という欠落感は、むしろ教師のこれからにとって大切なもののように思います。どうにも取り返しのつかない時間の経過と、それでも子どもは次の学年へ、学校へと進んでいく現実の狭間で、教師は自分の至らなさを自覚するのではないでしょうか。とりわけ点数とか偏差値とかで「成果化」されにくい幼小教育だからこそ、「できなかったこと」の本質がよく見えるのかもしれない、と思います。

欠落したものを埋め合わせようと、教師は懸命に努力する。それが教師にとって絶対必要な課題意識であり、自己改善への道です。それを、次の子どもたちへとつなぎながら、先生は年々に成熟していくのだと思います。完璧と奢らずに、欠落感を自覚する。私がいつも教師たちに贈る言葉です。