宗教を市民言語で語るということ。秋田県のワークショップにて。

(2017年01月31日 更新)

NPOのシンポジウムなどに招かれてしばしば感じることなのだが、ソーシャル系の人材で宗教を意識する人はいる。信者とかいわなくても、信心めいたものを秘めている、あるいは関心を持っているという人は少なくない。應典院が面白がられるのは、NPO的手法というより、彼らの源流に「原宗教」のようなものが根ざしているからだろう。DNAに敏感なのだ。

一般に市民言語で宗教的な話題が語られる時、違和感は大きい。市民主催の終活やエンディングの場で(非宗教の場であるにもかかわらず)、微妙な宗教観が露呈してくると、居たたまれなくなる。その担い手である中高年世代の、消費者意識も影響しているだろう。宗教が安いか便利かで値踏みされている。

反面、葬儀とか墓がほぼ無縁の場で、ひょっこり宗教観が顔を出すことがある。まちづくり、福祉、教育、芸術文化の場の数々で、担い手たちがふと宗教心を語り出すのだ。特定の信仰ではない。「皆が支えられおかげさま」とか「大きなものに見守られている感覚」「どこかでつながっている感覚」とかうぶな言葉かもしれないが、それが自分たちの活動の根底にあると告げられたりすることがある。海外では宗教系NGOが主流であるように、ソーシャルな活動には「ミッション」(宗教的には布教の意)が不可欠なのだ。

應典院という特異な空間の影響もあるだろう。若い世代が多いので、既存の宗教に対するアレルギーが少ない、といえるかもしれない。しかし、およそ布施とか戒名とかに縁のない彼らが、より強く宗教的シンパシーを持つのは、それが時代の通奏低音となっているからではないかと私は感じる。

下記のウエブサイトは、秋田県で進行中のソーシャルプロジェクトだが、推進するのは30代の起業家たちだ。前回のFBで紹介した「高齢化する社会をデザインするワークショップ」を主催するが、その最初に挙げた主題が「宗教」、というのもおもしろい。

「日本国内においては、お寺は主に葬儀や法事の管理主体に変容しているとさえ言われ、本来持っていた人々の交流の場としての社会的機能が衰退している。今後、高齢化が地方において一層に顕在化し、地域への帰属性の高い住民割合が高くなる状況に対して、宗教があるいは宗教施設がコミュニティの中で果たすことの出来る役割を模索し、その実現のための行動を起こす時が来ているのではないか」(開催趣旨より)

最近は「お寺」「お坊さん」に注目が集まるが、教義に踏み込むより、気軽であり、かつソーシャルな課題が共有できるからだろう。「宗教施設をこんな風に使ってみたい」などという議論が発想されること自体、変化を感じる。逆にいえば、教義を楯にして、市民言語とは相容れない溝を作ってしまったわれわれの責任もあるのではないか。
市民言語で語られなくなった文化は衰退する。むろん市民言語に同調することが宗教の目的ではないが、市民と向き合い、対話を試みる姿勢がなければ(ずいぶん時間を要することだが)、やがて終活レベルの貧弱な「宗教意識」が蔓延していくことになるだろう。

「宗教のソーシャルキャピタル」は胡散臭い、と感じるかもしれない。しかし、少なくとも、宗教がこれからの市民と向き合うには、社会における存在の確度を鍛えていく他にない。

*秋田で宗教を考えるセッションのウエブは以下。私も参加します。
https://peraichi.com/landing_pages/view/aal-religionist