語りを語らされる。「仏教の語り芸 弱者を語る」

(2015年12月03日 更新)

「弱法師」を演じたばかりの桂文我師匠が、セッションでこんなことを発言した。

「今日はいつも違う中身になりまして。私が自分の意思で語っているのやありません。何かに語らしてもろうてるんですな」

ふだんの「弱法師」では取り出さないような、師匠の記憶に埋め込まれた物語の断片が次々と高座で再生される。軽くいえば「師匠、今日はノリにノってましたね」となるのだが、語らせているものは何か。そこに、強い関心が残る。

まったく話は変わるのだが、今夜行った別の勉強会では被災地を巡るバスツアーの報告があった。ここでも強く関心が残ったのは、ツアーガイド役の地元の弁当屋の主人の語りである。いわば自分の肉親や友人を喪った道を案内するのだ、辛い作業に違いない。

だが、ツアー参加者が言うに、「それが、聞くのもつらい体験談をよどみなく、ユーモアさえ交え語ってくれた。ただ慣れているのとは違う。何か語らされているようだった」と。両者の間に、「自分ではない何者か」の語りが共振している。

語りは、本質的に他者性を帯びる。他者とは、四天王寺界隈にさざめく弱者の群れであり、被災地で喪われたいのちの数々である、文我師匠も弁当屋の主人も、その何者かになりきって語る。他者を「騙って」他者を「語る」のである。

勉強会の講師であったM氏が、こう言った。

「熊野も高野山から帰ってくると、ぼくはいつも決まって語らされる」

語っている彼は、感度のいい触媒であって、語っている主人公は、別にいる。語り芸の凄みはそこにある。

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